新型ベンツSLK350

超人気車種だった旧型と比較すると・・・

ロングノーズショートデッキ、スポーツカーらしいフォルムはノーズ部分が薄くなっていることが特徴

7年前に登場したSLKは一世を風靡したそのバリオルーフが人気を呼び発売当初は予約待ちの状況が続いたほどの超人気車種だった。最近ではSLKを見ない日がないほどのヒットぶり。特に女性が運転するSLKが天気の良い日にはフルオープンにして走る姿が目に付き、ファッション性でもこの手のロードスターのブランドイメージを独り占めにしているかのようだ。

フロントビューとは一変して全体に丸みを帯びたデザインであることが分かる。

オープンにするとボリューム感のある精悍なイメージに変身する。

新型のデザインは基本的にはロングノーズショートデッキのキープコンセプト。しかし、全体のイメージはより精悍になり明らかにスポーツ、それもF1をイメージしたデザインになっている。特にフロントノーズはマクラーレンSLR風にまとめられていて「ちょっとやりすぎ」ぐらいの強い押しがある。実は先日1週間ほど広報車をお借りしていたのだが、1週間目にはこの顔つきがくどく感じてしまったのだ。果たして、このニューデザインが世のオネーサン方に受け入れられるのだろうか。そこんところに、非常に興味がある。

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2008年期待の輸入車ベスト5

2008年期待の輸入車ベスト5
M・ベンツCクラスステーションワゴンやBMW1シリーズクーペといった派生モデルや、C63AMGにM3セダン、さらにはアウディRS6などハイパフォーマンスモデルの上陸にも期待大だけれど、一番の注目はなんと言ってもアウディA4。昨年後半の各モーターショーを“沸かした”ニューモデルが続々、日本市場に上陸する予定だ。日本への導入予定という意味で、全容が判っているクルマの中から国別に1台ずつ選んでみた。

ちょっと幅があるのが気がかりだけど、性能は抜群らしい。Cクラスで盛り上がったDセグメントをさらに沸かせること必至!クーペのA5も格好いいしねえ。春頃、上陸予定だ。

輸入車界、08上期期待のA代表というわけである。前世代がビッグマイナーチェンジだっただけに、進化の度合いにも期待大。今年上期において期待がもてる輸入車は、当然、その中から選ぶことになる。

ドイツ代表は進化に期待のアウディA407年9月のフランクフルトショーで初披露された、8代目となるミドルクラスサルーンのアウディA4。アウディのデザインアイコンであるシングルフレームグリルを踏襲まずは、ドイツ勢。

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エアバッグ

ベンツの安全性
1980年以降、オプション装備としてのエアバッグ設定で先行するなど、自動車の安全向上に関わる実績がある。


ベンツのコストダウンの弊害
かつては「Das Besten oder Nicht(最善か、無か)」の企業スローガンの元、「全ての形に理由がある」と言われるほど質実剛健であり良い意味で過剰性能・品質であったのだが、1990年代中盤以降の利益率向上を目指したコストダウンによって、市場に迎合し単なる高額ブランド商品的な製品が多く見られるようになってきた。

特に1997年に発売されたメルセデス・ベンツとして初のアメリカ工場(アラバマ州)で生産されたMLクラスは、その品質の低さと完成度の低さで「アラバマ・メルセデス」と酷評され、全世界におけるブランドイメージを大きく落とすことに一役買う結果になってしまった。また、先代Sクラス(W220)及び先代Eクラス(W210)が登場した際、古くからのメルセデス・ユーザーが代替した直後乗り味や質感の違いに先々代の新車(Sクラス:W140、Eクラス:W124)(W124のE500はポルシェによる生産)への交換を要求するなどのことが発生した。

これらのことにより、1990年代後半では「Das Besten oder Nicht(最善か、無か)」時代に発売された車種が一時的に中古車市場にて高値で取引され、程度によっては後に発売された後継車よりも高値をつけるなど、ある意味異常な状態も発生した。一方で、2000年代に以降にデビューしたEクラスやSLクラス、SLKクラスなどはこれらの反省から品質管理に重点を置き、その結果、1990年代中版以降と比べ品質は大幅に回復した。また、以前と比べて補器類やゴム部品などの交換耐用年数も大幅に伸びて、高年式になるとメンテナンスに手間と金額が掛かる車ではなくなった。特に2005年以降のイヤーズモデルでは、新Sクラス(W221)の発売やEクラスの最販車種であるEクラスの各種リコール対応による品質の安定・故障率の低下などもみられている。

ベンツのリコール
1997年に登場したAクラスが、北欧の自動車雑誌による“エルクテスト”と呼ばれる危険回避の運転操作の際に横転し、「メルセデス・ベンツにあるまじき失態」と世界中で報じられることになった。その後メルセデス・ベンツは発売した全てのAクラスをリコールしESPを装着するなどの改修を実施したものの、この事件は世界中に報道されたばかりでなく、多くの報道記事において、同時期に発売されその品質の低さと完成度の低さで酷評されたMLクラスの失態と並んで報じられたこともあり、大きく評価を下げることになってしまった。

また、2004年から2005年にかけて発生した、SBC(センソトロニック・ブレーキ・コントロール)の2度に渡るリコールは、主力車種であるEクラスで発生(看板車種のSLクラスでも)したこともあり、安全を最も重要なブランドイメージとしている、「メルセデス・ベンツ」にとって、大きな痛手となり経営を極度に悪化させる原因となった。 なお、2005年8月以降に発売されたEクラス、SLクラスでは、各種リコール対応により、十分な信頼性の確保が行われたが、イメージ的な判断であったのか、マイナーチェンジ後はこの装備がなくなっている。


ベンツの逸話

メルセデス・ベンツ
「メルセデス(スペイン語で『慈悲深い人』という意味)」という名前は、命名された1899年当時、ダイムラー車のディーラーを経営していたオーストリア・ハンガリー帝国の領事、エミール・イェネリックの娘の名前である。「ダイムラー」という硬い響きを持つブランドネームを避け、当時流行していたスペイン風の響きを持つ名前をあえて選んだと言われている。「メルセデス」ブランドは非常に有名になったこともあり、ダイムラー・モトーレンは1902年、メルセデスを商標登録した。なお、欧米では一般に「メルセデス」「メルセデス・ベンツ」と呼ばれるのに対して、日本では「ベンツ」と呼ばれることが多い。

なお、ドイツ語の原音に近い読み方では「メルツェデス」となる。自動車評論家の徳大寺有恒は著書や自動車雑誌の中でこの表記を用いることが殆んどである。また、五木寛之も著書の中ではこの表現を固持して使っている。

ベンツのエンブレム
メルセデス・ベンツの車体に輝くエンブレムは、合併前のダイムラー社が使用していたスリーポインテッド・スターとベンツ社の円形月桂冠とを併せデザインされたもので、3点にはそれぞれ「陸・海・空」の各分野でダイムラーベンツ社の繁栄が込められている。

ベンツのシルバー・アロー
メルセデスのセダン、クーペ、オープンカーでは、銀色のボティがもっとも人気高い。この理由のひとつとしてあげられるのが、「シルバー・アロー」の逸話である。

1934年〜1937年のグラン・エプルーブ、グランプリ・レース(現在のF1世界選手権に相当)は、後に「750kgフォーミュラ」と呼ばれることとなる、車重を750kg以下とするレギュレーションで実施されていた。

1934年のニュルブルクリンクにおけるアイフェル・レンネン(アイフェルレース)前夜、車両重量規定をわずか1キログラムオーバーしてしまったメルセデス・チーム(監督はアルフレート・ノイバウア)は、苦肉の策としてボディーの純白の塗装をすべて剥がすことを決断する。

一晩かかって塗装を落としたアルミむき出しの銀色のボディーに、直接ゼッケンを貼り付けてレースに参戦、そしてこの車を駆るマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが優勝する。 それ以降メルセデスのレーシングカーは銀色がトレードマークとなり、「シルバー・アロー」の愛称で呼ばれるようになった。また、これ以降ドイツのナショナルカラーも、それまでの白色から銀色とされた。

同時期に活躍した、アウトウニオンも同様に銀の塗装で「シルバー・フィッシュ」と呼ばれ、第二次世界大戦の勃発する1939年まで、シルバー・アローとシルバー・フィッシュのドイツ勢が、グランプリを席巻するのである。


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BMW

BMW(独:ベー・エム・ヴェー 英:ビー・エム・ダブリュー)は、ドイツのバイエルン州ミュンヘンを拠点とする自動二輪車及び四輪自動車メーカー。高級車メーカーとしては、世界最大である。

本社ビルは、エンジンのシリンダーを模した円筒形を4つ組み合わせたような形をしており、vier Zylinder(フィア・ツィリンダー、英語でfour cylinders)と呼ばれる。

概要
BMW 645iBMWは「バイエルン原動機製造株式会社(Bayerische Motoren Werke AG)(バイエリッシェ・モトーレンヴェルケ・アーゲー。英称:Bavarian Motor Works バヴァーリアン・モーターワークス)」の略である。BMWは、メルセデス・ベンツ、アウディとならぶドイツ製高級車ブランドとして知られ、このほか現在は傘下に名声高い高級車ブランドの英国・ロールス・ロイスと、同じく英国の有名小型車ブランドMINIを持つ。

日本には現地法人として、千葉県千葉市美浜区(幕張新都心)に「ビー・エム・ダブリュー株式会社(BMW Japan)」を置く。

4輪車製造直後よりモータースポーツに積極的で、F1にはエンジンサプライヤーとして1980〜1987年と2000〜2005年の2期にわたり参戦した。2006年からはザウバー・チームを買収しBMWザウバーF1チームとして本格ワークス参戦している。

紛らわしい会社として、「EMW」がある。アイゼナッハ自動車株式会社の略。旧東ドイツの自動車製造会社で、旧東欧圏や北ヨーロッパにはよく輸出していた。

経営状況
経営状況は非常に良いと言われ、既に40年以上赤字を出していない。 2003年の世界市場での販売実績はBMWグループ全体として110万4916台。収入は415億2500万ユーロ。 日本市場での販売実績は4万9074台、うちBMWブランドが3万6539台で、MINIブランドが1万2535台であった。

製品の特徴
キドニー・グリルスポーティーな車を製造することには定評があり、良質なハンドリングへのこだわりから、現在では非常に少ない小型FR車を生産しつづけ、FF車を生産していない、世界的にも稀な自動車メーカーとなっている。とはいえ、過去にはFF車を開発(FRからFFに転換)しようと試みたこともあり、それらの技術を基にしたことで、ローバーおよびミニブランドの新型車が比較的容易に開発できたことは、暗黙の事実である。

また、丸目四灯式(そもそもは二灯式+補助灯)のヘッドライトと「キドニー・グリル」と呼ばれる、腎臓(kidney)のような形をしたグリルをもつフロントマスクが有名であり、BMW車の大きな特徴の一つとされている。キドニー・グリルは、1933年に発表されたBMW初のオリジナル車「BMW303」から、イセッタおよびその派生車であるBMW 700を除いた全てのモデルに取り付けられている。

現在はクリストファー・バングルというアメリカ人デザイナーが初代X5シリーズ以降に発売された全ての新型車のエクステリアデザインを担当している。BMW初のSUV(→BMW自身はSAVという新ジャンルだと頑なに主張)であるX5では目立たなかったのものの、フォーマルサルーンの筆頭格である7シリーズ の新型車のデザインが、あまりにも奇抜すぎていたため、「バングルは、BMWを潰すためにメルセデスが送り込んだスパイだ」などといった、根っからのBMWファンをはじめとする、多くの人々から批判が寄せられた。


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アウトバーン

概要
「アウトバーン」を逐語訳すると「自動車の走る道」である。現在はその他に高規格の自動車専用道路をシュネル・シュトラーセ(Schnellstrasse)と呼んで区別している。アウトバーンの路線番号は東西方向が偶数、南北方向が奇数に割り振ってある。

アウトバーンはドイツ国内だけでなくヨーロッパ各国の高速道路と密接に接続され、スイス、フランス、オーストリア、オランダなどの高速道路にも接続されている。スイスの国境には本線上に国境ゲートがあらわれ、年間通行料金を支払いフロントガラスに貼るステッカーを渡される。フランスの高速道路・オートルートは有料となっている区間が多く、国境を越えると本線上に料金所が現れる。オランダの高速道路は無料であるため国境を示すEUの標識があるだけである。

シュネル・シュトラーセの制限速度は大体120km/hとなっている。ドイツの速度制限ルールはいたって簡単で、街の始まりを示す標識、終わりを示す標識の間の市街地は50km/h、それ以外は100km/hである。

人や馬も歩く道ではなく、専用道的な意味合いを持つ。例:Sバーン(近距離鉄道)、Uバーン(地下鉄)、シュトラーセン・バーン(市電)全部鉄道である。アウトバーンも自動車専用道路である。

歴史
アウトバーンの最初の構想と計画、限定的な建設は1920年代のワイマール共和国時代においてであった。しかし計画の大部分は経済問題および政治的援助の不足によって、ベルリンのレースサーキット、アヴスの一部をのぞいて建設は進まなかった。計画の内の一つは、ハンブルク北部からフランクフルト・アム・マインの中央部を通りスイスのバーゼルに抜ける自動車専用道「HaFraBa」であった。「アウトバーン」の名称は1929年に創られた。

第一次世界大戦後のドイツは莫大な賠償金を請求されるなどしてハイパーインフレーションに陥った上、その後の世界恐慌による不景気で深刻な経済状況となり国内は大量の失業者であふれていた。1933年のナチ党による政権成立後アドルフ・ヒトラーは経済政策の一環としてアウトバーン計画を含む公共事業に注力した。アウトバーン建設総監に任命されたフリッツ・トートの指揮下に建設が進められた。公共事業のおかげでドイツでは失業者が大幅に減少した[1]。アウトバーン計画はプロパガンダに利用され、6ヵ月の無償勤労奉仕 (Reichsarbeitsdienst) を義務付けられたナチ党の青少年がこれに参加し、新しいドイツの建設という国民意識の高揚に大きく寄与した。

アウトバーンは世界で初めての高速道路ネットワークであった。このことはドイツを世界屈指の自動車大国に作り上げていく大きな礎となったと言える。フランクフルトからダルムシュタットまでの最初の区間は1935年に開通した。この直線区間は1938年前半にドイツ人レースドライバー、ベルント・ローゼマイヤー (Bernd Rosemeyer) の致命的な事故が発生するまでメルセデス・ベンツおよびアウトウニオンのグランプリチームによって最高速度記録達成のため使用された。 第二次世界大戦中は連合軍の空襲を避けるためにトンネルや近くの森の中に航空機を隠し、アウトバーンを滑走路代わりとして利用した。連合国による激しい爆撃によってアウトバーンは多くの部分が破壊されたが、戦後西ドイツ地域の区間は早急に修復が行われた。一方東ドイツおよびポーランド政府はその修復を怠った(というより経済的な事情で出来なかったのである)。1950年代に西ドイツ政府は構築プログラムを再開し、新区間の建設および既存区間の改良に多額の投資を行った。1980年代には西ドイツ国内ですべての世帯から10km以内のアクセスを提供する準備ができていたが、ドイツ再統一後は大部分の建設計画と資金を忘れ去られていた東側にシフトした。

制限速度
アウトバーンには速度無制限区間と速度制限区間がある。速度無制限区間であっても無制限なのは乗用車だけで、トラックは80km/hが制限速度になっている。日本と同様に自動速度違反取締装置(カメラ)が設置されているところもある。近年は速度制限区間が多くなり、速度無制限区間は路線全体の20%以下となっている。ちなみに速度無制限区間における推奨巡航速度は130km/hとされている。 速度無制限区間であっても、路面の荒れが激しいことや交通量の増大に伴い混雑が激しいこと、すぐに速度制限区間に到達してしまうことなどから、近年の幹線道路においては、交通量の少ない地方の路線を除いて、300km/hの高速で走行することは難しくなっている。

料金
A20かつては全線無料だったが、東西冷戦の終結、EUによるヨーロッパ経済の統合によって、ヨーロッパの中間に位置するドイツのアウトバーンは東西交通の要として重要な存在となっている。そのため、各国からの交通量の増加に加えて周辺の環境対策や道路の整備維持など、莫大な費用がかさんできており、現在ドイツ政府は有料化の方向で検討している。2005年1月より12トン以上の大型トラックについて有料となった。ただし料金所もゲートも存在しないので、GPSと携帯電話による通信を用いた課金方法を取っている。


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ベンツの歴史

かつての車種
第二次世界大戦前・大戦中の車種
S/SS/SSK/SSKL 通称Sシリーズ。1927年、前身のKシリーズをいっそうスポーティにしたモデル「S」(SはSport(シュポルト)の略)が登場。設計はフェルディナント・ポルシェである。前身のKシリーズのフレームにキックダウンをつけることで低重心化し、エンジン位置も調整したもので、市販車であるがそのままレース出場すら可能な、文字通りのスーパースポーツカーである。Sシリーズはエンジン排気量・ホイールベースの改良により、SS/SSKへと進化。SSKに至っては、1920年代の市販車でありながら、最高速は時速192kmを出すことが可能であったという。日本では、SSKがルパン三世の愛車としても知られている(但し、エンジンはフェラーリ12気筒に変更されているという設定)。究極的には、エンジンを当時としては例のない300馬力まで強化し、大幅にストリップダウンされて軽量化したSSKLとなり、最高速は時速235kmに達したが、これはレース専用であり、僅か数台が製造されただけであるとされる。SSKLは、1931年には、伝統のミッレ・ミリアを制したことでも名高い。Sシリーズは、名手ルドルフ・カラツィオラの活躍や、その生産台数の少なさもあり、現在まで伝説のマシーンとして記憶されている。
170H
540K ホルヒ853と互角に競った、最高のパーソナルカーである。当時、どの自動車会社もスペシャリティモデルはすべてコーチワークをコーチビルダーに任せていたが先代の500K同様、自社でコーチワークを行っている。だがその完成度はコーチビルダーに勝るとも劣らない程であった。又、映画サウンド・オブ・ミュージックでもこれのカブリオレBが使用されている。
260D 世界で初めてディーゼルエンジンを搭載・市販された乗用車である。
770(770K)、 通称「グローサー・メルセデス」と呼ばれている直列8気筒のこのモデルはダイムラー・ベンツのフラッグシップモデルである。主な顧客は世界の王侯貴族や富豪層、そしてヒトラーを始めとする国家社会主義ドイツ労働者党の高官達である。モデルは初代と2代目がある。国家社会主義ドイツ労働者党では戦勝地でのパレードで国力を見せつけるために使用された、まさにグローサーの名に恥じない偉大なモデルである。このグローサーの初代モデルはかつて大日本帝國の皇室で昭和天皇の御料車として15年以上使用された(ドイツ、Stuttgartのメルツェデスベンツミュージアムで展示)。同じ770でもヒトラーら国家社会主義ドイツ労働者党の高官達のものは、当時のダイムラーベンツ社の技術部長であったフェルディナント・ポルシェ開発によるスーパーチャージャー(Kompressor)を追加したものであり、特にヒトラーのものはレーサーのルドルフ・カラツィオラ (Rudolf Caracciola)により納車された。

大戦後
300SL スポーツクーペ/ロードスター。世界初のガソリン直噴エンジン搭載車。クーペはガルウイングが特徴。
190E(W201) 長らく小型車を持たなかったメルセデスが1982年に発表、業界を驚かせた。アメリカのCAFE対策で生まれた車。名称も本来メルセデスは排気量を示す「190」がそのまま車名になってしまい、2.3リットルモデルは、190E2.3等とCクラス出現までは変則的な名称となってしまった。デザインは、社内デザイナーのブルーノ・サッコの手による。ブレーメン工場で初めて生産された。小型化するために世界初のマルチリンク(ポルシェ928のバイザッハアクスルが先とする説もある)を搭)。本来の目的はラリー参戦とも、アメリカ合衆国で販売する際のメーカーの総排気量規制の結果とも言われる(ラリー参戦については実現しなかったがツーリングカーレースには参戦)。コスワースが開発に協力した高性能版『2.3-16』後の『2.5-16』は特に有名で4ドアセダンの高性能モデルの魁となった。オリジナルの2リットル版の他に2.3/2.6リットルの直6や2.5リットルのディーゼルを搭載した車両もあったが、ボディタイプは上級車であるミディアムクラス(後のEクラス)と異なり4ドアセダンのみだった。バブル経済時代の日本では5ナンバーサイズに収まることから「小ベンツ」と呼ばれもっとも街中で見かけるメルセデスと言うことで揶揄された。しかしサスペンション等、上級車であるミディアムクラス(後のEクラス)との共通部品が多く、所謂ダイムラー・ベンツとクライスラーの合併以前の「Das Besten order Nicht(最善か、無か)」時代のモデルである。

モータースポーツ
メルセデス 参戦年度 1954 - 1955
出走回数 12
コンストラクターズタイトル 0
ドライバーズタイトル 2 (1954 , 1955)
優勝回数 9
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 17
ポールポジション 8
ファステストラップ 8
F1デビュー戦 1954年フランスGP
初勝利 1954年フランスGP
最終勝利 1955年イタリアGP
最終戦 1955年イタリアGP


メルセデス・ベンツの車両は第二次世界大戦前からモータースポーツに盛んに登場していた。

1934年から1939年の第二次世界戦勃発まで、メルセデス・ベンツとアウトウニオンのドイツ勢は、ヨーロッパのモータースポーツ界を完全に席巻した。

メルセデス・ベンツチームは偉大なレース監督アルフレート・ノイバウア (Alfred Neubauer)(サインボードの発明者である)により、まさに軍隊的規律の元でレースに臨み、結果を出しつづけたのである。

戦前のグランプリ・レース用主要マシンはW25(1934年〜1936年)、W125(1937年)、W154(1938年・1939年)、W165(1939年)で、いずれもフロントエンジンながら、時代の最先端を行く性能を有していた。当時の主要ドライバーは、ルドルフ・カラツィオラ (Rudolf Caracciola)(1935年、1937年、1938年ヨーロッパチャンピオン)、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (Manfred von Brauchitsch)、ヘルマン・ラング (Hermann Lang)(1939年ヨーロッパチャンピオン)、ディック・シーマン (Dick Seaman)。シーマンのみ、英国出身で、他は皆ドイツ人である。

1937年に登場したマシンW125に到っては、600馬力を超えるエンジンを持ち、最高速度は現代のF1と遜色ない時速340Km以上に達していた。

そのため、W125はターボ・マシン登場以前の1970年代後半になるまで、史上最強・最速のレーシング・カーであるとの伝説を保ち続けていた。

同年のアーヴス・レンネン(アーヴスレース;フリー・フォーミュラ=制限なしで行われた)では、ヘルマン・ラングが特製された流線型ボディのマシン(同年のフォーミュラマシン・W125に流線型ボディを着せた車ではない)に乗り、時速260.7kmという現代でも驚かされるような平均速度で優勝しているが、クローズド・サーキットの記録としてはその後20年以上及ぶものはなく、オーバルを使用するインディ500において、優勝者の平均速度がこの記録を上回るのは1972年のマーク・ダナヒュー(マクラーレン・オッフィー)の平均時速261.08kmを待たねばならないほどである。メルセデスとアウトウニオンは、アーヴス・レンネンの直線では、実に時速380kmを出していたと言われている。

1939年のトリポリグランプリ(イタリア領リビアのメラハサーキットで開催。メラハサーキットは一周13キロメートルの高速コースで、当時『モータースポーツのアスコット』と呼ばれていた)は、レース開催の8ヶ月前になって、強すぎるドイツ勢を締め出すべく、当時の国際フォーミュラである3リッター・マシンではなく、イタリア国内ルールである1.5リッター・マシンで実施されることとなった。イタリア側としては、短期間での新型メルセデス、新型アウトウニオンの製造は不可能と考えたためであるが、メルセデス・ベンツチームはその当時の3リッターマシン、W154のミニチュアともいうべきW165を短期間で完成させ、同グランプリにおいても、メルセデス以外の全車を周回遅れとして1-2フィニッシュ(ラング、カラツィオラ)を飾ることとなる。ラングの平均速度は時速197.8kmを記録している。なお、W165の実戦はこの年のトリポリグランプリのみであった。

また、ルドルフ・カラツィオラはモータースポーツのみならず、速度記録にも挑戦し、メルセデス・ベンツのレーシングカーを改造したレコードブレーカーに乗り、数々の速度記録を打ち立てている。1938年には、フランクフルト:ダルムシュタット間のアウトバーンにおいて、フライング・キロメーターで時速432.7kmを記録している。

大戦後、1952年にル・マン24時間レース、1954年にF1世界選手権に参戦し、偉大なドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオやスターリング・モスの活躍により、それぞれ大きな成果を挙げた。特にF1では出走した12レースで9勝(ファンジオ8勝、モス1勝)という圧倒的な成績で、両年ともにファンジオがワールドチャンピオンを獲得するという「旋風」を巻き起こした。

しかし、1955年のル・マン24時間レースで、ピエール・ルヴェーの運転するメルセデス300SLRがクラッシュし、分解したマシーンのエンジンとサスペンションが時速200qを超える速度のまま観客席に飛び込む事故を起こし、200名以上の観客を死傷させる大惨事となった。このレースでメルセデスチームは、ファンジオ・モス組がトップを走行していたにもかかわらず、すべての車両を途中でリタイアさせている(レースはホーソーン(ジャガー)が優勝)。また同年末で一切のモータースポーツ活動から撤退した。

1980年代後半には、ザウバーと共同でWSPC(世界プロトタイプカー選手権)に出場するなど、徐々にモータースポーツとの関係を取り戻し始めた。またこの頃、ミハエル・シューマッハをはじめとする若手ドイツ人ドライバーの育成プログラムを開始し、本格的なレースへの復帰を模索し始めた。この頃にル・マンに復帰し、1989年に総合優勝を遂げるが、1999年のレースでまたしても宙を飛ぶ事故を起こし、犠牲者は出なかったが、やはりこのときも直後に全車をリタイアさせている。その後のル・マンには参戦していない。

1990年代序盤にはフォーミュラカー用エンジンビルダーであるイルモアに資本参加し、インディカーおよびF1においてメルセデス・ブランドでのエンジン供給を開始。現在はF1のマクラーレンに対してエンジンを独占供給する形で参戦しているが、マクラーレンを完全買収してメルセデス・ベンツ単独でのF1参加を画策しているという噂は根強い。


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正規ディーラー

ベンツの日本における販売
S600日本における販売台数は、49,713台(2006年、日本自動車販売協会連合会)である。内訳は、1位:Eクラス 9,639台、2位:Sクラス 8,078台、3位:Cクラス 8,042台、4位:Bクラス 7,189台、5位:Aクラス 5,157台(2006年、日本自動車輸入組合)など。  

ベンツの乗用車
正規ディーラーとして長年取り扱ってきたヤナセと、1990年代以降にスタートしたシュテルン(現メルセデス・ベンツ店)での取り扱いが行われている。

バブル景気末期の1980年代後半から1990年代前半にかけて、一部の三菱ギャラン店で販売されていた事があった。現在も三菱系ディーラーがメルセデス・ベンツ店を運営する場合もある。またシュテルン店の母体の一部にはトヨタや日産などの国産車ディーラーの子会社が運営しているところもある。このほか、並行輸入がいくつかの輸入業者によって行われており、正規輸入ディーラーでは取り扱っていない車種やオプションの組み合わせを購入することが出来る。

メルセデス・ケア
1998年4月以降(AMG、Gクラスは6月以降)に、正規販売店で新車を購入した場合、3年間の無料保障と故障や事故時に「24時間ツーリングサポート」を受けることが出来るサービス。 特徴的なのは、一般的な故障などのほか、ワイパーブレード、オイル、ブレーキパッド、ブレーキディスクなど一部ではあるが消耗品も無料交換の対象となることである。車検整備にかかる費用及び車検取得に必要な諸費用は含まれない。

欧米出荷モデルと日本モデルとの違い
欧米の正規代理店で購入できる車種と、日本国内の正規代理店から購入できる車種で、装備や内装などに違いがあることがある。販売戦略によるケースが大部分であるが、一部法規や、マーケティング分析の明らかなミス・手抜きと思われる様なものもあり、ユーザー間で是正が待たれている。

他の高級車に装備されたり、欧米での購入時には対応できるもので、国内購入のメルセデス・ベンツに装備されないものの一例
ハンズフリー装置 : DoCoMoおよび、FOMAのみ対応。BMWなどの競合他社は基本的に全キャリア対応となる。
HDDカーナビ : Sクラスや、Aクラスなど一部の車種のみに対応しており、(最販売車種であるEクラスなどには設置ではない)競合他社は基本的に標準かオプションなどでHDDカーナビを選択することが出来る。
オートクルーズコントロール : 前車との位置により自動的に加減速する装置であるが、法規上の問題に対応できず[要出典]Sクラス以外には装備されていない。
iPod接続機能 : 最近販売された一部車種のみ接続でき、大部分の車種で接続できない。(外部入力端子そのものがないケースが多い)
SOSシステム : 事故時などに、自動的に事故情報と生存者の状況を問い合わせるための音声回路が接続されるシステム。北米で運用されている。

商用車
正規輸入ディーラーとしてコマツ、シュテルン及びその他ディーラーでの取り扱いが行われている。


ベンツのバス
日の丸自動車興業が導入したメルセデス・ベンツO303RHDウェスタン自動車(メルセデス・ベンツ日本総代理店)によって1985年に輸入され、1986年に宮城野観光バスに導入されたものが最初である。その後、日の丸自動車興業や岐阜バスなどで導入された。

ほとんどが貸切バスとしての導入であるが、日本急行バス(当時)では、名神ハイウェイバス名古屋〜神戸線を中心に「ベンツ特急」と銘打って昼行高速バスへ投入した。

1993年に西日本鉄道などへ導入された2台を最後に、新車での輸入は途絶えているが、その後2006年になって、東京都内の新規貸切バス事業者によって、イギリスで使用されていたスーパーハイデッカー「トゥーロ」が中古車で2台輸入されている。


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ベンツ

メルセデス・ベンツ (Mercedes-Benz) は、ドイツ・アメリカの自動車会社、 ダイムラー・クライスラー(DaimlerChrysler AG) の一部門であり、乗用車、バス、トラックのブランドである。

ベンツの概要
ドイツ、シュトゥットガルトを拠点に、乗用車と商用車を「メルセデス・ベンツ」のブランドで展開している。

ベンツの乗用車
ベンツのタクシー(ドイツ)
Conecto H世界を代表する高級車ブランドとしての一面と、ベンツはタクシーなどとしても広く使われる実用車・大衆車の供給者としての一面がある。

欧米のメディアやマスコミにおいては、武器商人やビバリーヒルズの歯医者、セレブリティの所有車といった成金的なイメージとして表象されることも多く、日本でもベンツは暴力団や芸能、テレビ関係者、スポーツ選手等が好む車の代名詞として知られている。また、外交官向け販売を行っていることより、ベンツは冷戦時代においては東側諸国の外交官の利用者も多く、その為「ペルソナ・ノン・グラータ向けの車」と揶揄されることも多い。

日本で販売されているベンツの車種の価格は、約250万円台(Aクラス) 〜 5,700万円台(SLRマクラーレン)であり、すべてのクラスにおいて、国産車で同じ排気量を持つ車種の1.5倍以上の価格設定である。

2006年のベンツの販売台数クラス別ランキング(世界)では、1位はEクラス、2位はSクラス、3位はCクラス、4位はBクラスである。

ベンツの商用車
メルセデス・ベンツは、世界最大のトラックメーカーでもある。バスやバンなども含めたメルセデス・ベンツの商用車の主な市場は、ヨーロッパのほか、中東、アジア、中南米諸国などである。

ベンツの来歴
ベンツの成り立ち
1886年にドイツの技術者、カール・ベンツによって創設された世界最古の自動車メーカーの一つ。1920年代より、当時ヨーロッパで盛んになっていたモータースポーツに積極的に参戦し、数々の好成績を収めその名声を確固たるものにした。ゴットリープ・ダイムラーが、ベンツと殆ど同時期に創設したダイムラー社と合併したのは1926年である。

ベンツのナチスへの協力
ヒトラー専用車だったメルセデス・ベンツ770Kナチスの創設者でドイツの独裁者であったアドルフ・ヒトラーは、政権獲得後の1933年2月11日、国際ベルリンモーターショーにおける開会宣言で新時代の交通機関である自動車と自動車道路の建設に注目し、モータリゼーションの速度を速めることが国家の防衛力を高めることになると説いた。これ以降政府は自動車税の撤廃、アウトバーン建設、国有鉄道にトラック輸送部門の新設等の政策を打ち出した。

ナチス党は、党内に国家社会主義自動車隊(NSKK)を設け、運転技能者育成を始める。ベンツは運転教官の派遣、教習車の無償提供、国家社会主義ドイツ労働者党機関への役員の派遣等で積極的に対応して、国家社会主義ドイツ労働者党の強力なバックアップによりグランプリ・レース、ル・マン24時間レースやミッレミリアなどのレースで同じくバックアップを受けるアウトウニオンなどとともに活躍した。

また、1935年ドイツ再軍備宣言以降のドイツの軍備拡張を支える企業として、戦闘機のエンジンや軍用車両などの生産を行う。1939年9月に勃発した第二次世界大戦中は軍需生産に集中して、連合軍の爆撃の標的になるなどしてドイツの敗戦までの約6年間に壊滅的な損害を受ける。また、大戦中にユダヤ人や連合軍の捕虜を大量に強制労働者として使用した事から戦後多額の賠償を行うことになった。

ベンツの名車
Sクラスを改造したパパモビル(謁見用教皇車)に乗るベネディクト16世その後、1950年代以降のドイツ経済の回復に合わせるように、ミッレ・ミリアやル・マン24時間レースで大活躍した300SLRや、石原裕次郎の愛車として有名な300SLなどの数々の名車を送り出す。

その後も1960年代後半に発売されたミディアム・クラス(現在のEクラス)や、R107SL、「サッコプレート」で有名なブルーノ・サッコの手による、W124(このときからコンパクトクラスが「E」クラスと呼ばれる)、また、ドイツのヘルムート・コール首相の専用車であったW126(当時はクーペの「SEC」も「W126」)、そしてアメリカのCAFE対策で生まれたW201(現行W203Cクラスにつながる)、などのヒット作を市場に送り出し、高級車市場での存在感を持ち続けている。


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